ヨギ・バジャン

1929年インド、プンジャーブ生まれ。家系を継ぐ男児誕生を25年間祈っていた家族の長男として生まれる。家族による祈りの一つに、男児が誕生した際には、感謝の証としてヴァイシュノ・デヴィにある神社まで息子を背負い、聖域の体験を産後にさせるという約束があった。産後数十日だったと推測されるヨギ・バジャンは父親の髭に覆われた胸に抱かれ、ヴァイシュノ・デヴィの険しい洞窟の中を運ばれたという。

幼年期

ヨギ・バジャンは、地主の家に生まれ、誕生日は村中で祝福されお祭りのようであった。毎年、誕生日には彼の体重分の金、体重7倍の麦が貧しい村人へ配布された。貧しい人々に食物を与える慣習、セバ(奉仕)の意識、食物を配給するという習慣が幼児期に確立された。また彼の教育においてユニークな点として、カトリック教の女子校に唯一の男子として通ったことが挙げあれる。

サット・ハザラ・シン

ヨギ・バジャンはクンダリーニヨガ、タントリック・ヨガ、銅鑼(ゴング)による瞑想法をサット・ハザラ・シンの下で修得した。16歳という若さで、クンダリーニヨガを継承することを師から認められる。サント・ハザラ・シンの下で修得したクンダリーニやタントリック・ヨガ以外に、ヨガ・シムリットのアカルヤ・ナリンダー・デヴの元でハタヨガと神経系の影響とバランスについて学んだ。これは神経不調を患っている人が多い米国で計り知れないほど貴重な知識となった。

リシケシにある世界的にも著名なシバナンダ僧院(スワミ・シダナンダ、スワミ・ビンシュ・デヴァナンダ、スワミ・サッチダナンダらの名声高いマスターが学んだ場所)は、ヴェダンタ哲学として知られる永遠の真理の流れのスピリチュアル基盤として知られていた。この神聖なる叡智の根源に、ヨギ・バジャンは自らの心と精神をインスピレーションで満たすことができた。

家庭

聖人的存在であった祖父から、ヨギ・バジャンは幼いころより感動的なシク教の10大グルの話、歴史逸話について聞かされていた。これらの話は彼の価値観を形成し、その価値観と美徳は、後にシク教西半球総監としての任務活動に反映される。1947年、インド分離独立の最中、ヨギ・バジャンは18歳の若さで村人7000人を率い避難した。その後、大学を卒業し、政府役人となり家庭を持った。1953年にサルダーニ・インダージット・カーと結婚し、3人の子供を育てた。

グル・ラム・ダス

ヨギ・バジャンの人生において重要な出来事の一つに、シク教4代目グルであったグル・ラム・ダスとの関わりがある。グル・ラム・ダスはラージャヨガの実践法を階級、人種、性別、年齢に関係なく万人に広めた賢者としても知られる。
政府役人として1960年にアムリットサー市近郊に配属されたヨギ・バジャンは、黄金寺院の大理石の床を磨く絶好の機会と決めていた。シク教徒として黄金寺院とアムリットサーという聖地の特異的な重要性を理解していた。個人的な精神性の追求、そして謙虚さと無私無欲の献身的な奉仕によってのみ、彼が求めている充実感が得られることも理解していた。生存する師から長年学んでいたが、個人的な関係を超えた現存しない指導者の必要性を感じ、無償なる愛情と理解につながる最後の何か、を望んでいた。4年間半、政府役人であったヨギ・バジャンは毎日黄金寺院のハリマンダー・サヒブの床をひたすけ磨き続けたという。

敬愛するグルの家を掃除することで、彼はグル・ラム・ダス家の息子であると氣づいた。今の自分があるのは役職や学位があるからではなく、黄金寺院の床を磨いたからだとよく言及していた。

西洋へ

パリム国際空港の通関役人になったヨギ・バジャン。人生の新たな幕開けの段階に入るべく、同空港を1968年9月に出発するまでに幾多の出来事が重なった。決定的な出来事は、ニューデリーの通関所に現れた一人のカナダ人紳士との出会い。カナダに来てトロント大学でヨガを教えてくれる先生を探しているがなかなかみつからないと不満をもらした。ヨギ・バジャンはその紳士に自分のヨガ修行の経緯を話し、その場で講師としてカナダにきてほしいと依頼をされた。その後、短時間で出発の準備にとりかかった。

ロンドンに到着するやいなや、彼の荷物は紛失。彼に残されたのはテープレコーダーとスークマニ経典が録音されたカセットテープが入った小さいエア・フランスのカバンのみ。カナダに入国した際の彼の持ち物は着用している服と小銭のみ。そして、職を約束したカナダ人紳士は車の事故で数日前に亡くなっていた。

1日たったドーナツを水に含ませた食事で空腹をしのぎ、冬には新聞紙をサンダルに巻きつけ寒さをしのいだ。大手出版会社の事務員として働き始め、地元のヨガ僧院やロッチデールという宿泊施設でヨガを教え、ヨギ・バジャンとして生徒に親しまれるようになった。

1968年12月、ニューデリーの旧友が米国に移住し、ヨギ・バジャンをロサンゼルスに招待した。ロサンゼルスこそ自己知識、自己開拓、真実を求める若者の運動の中心地とヨギ・バジャンは直感した。さまよう魂の渇望を満たす知識、経験、テクノロジーを共有するため、東西文化センターや家具店でクンダリーニヨガを教え始めた。1969年7月に非営利団体3HOを設立、1971年にクンダリーニヨガ研究所(KRI)を設立した。

マハン・タントリック

1971年、ヨギ・バジャンはホワイト・タントリック・ヨガの継承者に命じられる。ホワイト・タントリック・ヨガとは、ビンドュー(点の科学)を応用した浄化ヨガ・瞑想のワークショップ。生存するマハン・タントリックは世界に1人のみという掟があった。ヨギ・バジャンの師であったサント・ハザラ・シンが生きている間は、彼が継承していた。サント・ハザラ・シンにはもう1人のラマ・リラン・ポーという生徒がおり、サントジが他界したとき、マハン・タントリックのパワーはラマ・リラン・ポーに継承された。そして1971年にラマ・リラン・ポーが逝去した際、ヨギ・バジャンに授けられた。

西洋に渡り、2004年に75歳で逝去するまでの35年間、8000回以上のヨガクラスや講演を行い、クンダリーニヨガやホワイト・タントリック・ヨガを始め、3HOライフスタイルを世界各地に普及させる基盤を創った。また1985年には異教徒間の国際平和祈りの日を設けるなど、平和活動にも携わった。

ヨギ・バジャンは、古代科学の叡智を教えるためには、各々の教師が自立した生活を営むことの大切さを強調してきた。生徒数を数えるような生活では、真理を伝える謙虚さが欠けてしまうと指摘。自らも起業家として、北米でヨギ・ティー(ハーブティー会社)、ピースシリアル(朝食シリアル会社)やアカル・セキュリティー(警備会社)などの事業を成功させている。